城南町(じょうなんまち)は熊本市の中心地から、南へ15~16kmに位置した面積36.88k㎡の田園地帯です。
昭和30年3月に旧杉上村、旧隈庄町、旧豊田村の1町2村が合併して、熊本城の南に位置することから「城南町」として誕生しました。城南町発足から55年後の平成22年3月23日に同町は、熊本市と合併し熊本市南区城南町となりました。(平成24年4月1日熊本市政令都市へ移行)

城南町の人口は、国勢調査人口で、昭和60年15,816人、平成7年18,781人、平成12年19,677人と増加傾向にあり、平成17年では19,641人と減少に転じたが、現在の平成27年では21,539人と再度増加傾向にあります。

また、人口構成を世代別で見ると、総人口に占める年少人口比率(15歳未満の割合)が昭和55年19.6%、平成12年15.3%、平成17年13.8%と減少し、逆に老年人口比率(65歳以上の割合)は昭和55年14.1%、平成12年21.9%、平成17年には24.5%、平成27年には34%と増加傾向にあります。

急速に少子高齢化が進んでいることから今後、少子高齢社会に対応し、住民一人ひとりが健康で生き生きと安心して暮らせるよう、保健・福祉・医療サービスや子育て支援の充実がより一層必要となりました。これまで以上にきめ細かで効率的なサービスの提供に、必要な人材や財源の確保などが不可欠です。市町村合併はそのための有効な手段の一つでもありました。

九州地図の城南町

地域資源では、国指定史跡である塚原古墳群や御領貝塚などの悠久の歴史・文化遺産を有し、豊かな自然と田園地帯が広がる恵まれた環境の中で、潤いのある生活が営まれており、住みやすく暮らしやすい町です。
現在までつながる熊本市・城南町の歴史は、古く縄文時代まで遡ります。約5,000年前には、海が、熊本平野内陸部まで入り込んでいましたが、その海岸線沿いであった城南町阿高の黒橋や御領、熊本市沼山津などには貝塚が形成され、熊本平野一円を活動域とする文化が形成されました。また、奈良時代になると、熊本市黒髪から城南町隈庄まで西海道がほぼ直線で通り抜け、城南町の陳内廃寺出土の文様瓦と同種のものが、熊本市大江遺跡群からも出土するなど、そのつながりの深さがうかがえます。

陣内瓦窯跡
陣内廃寺跡

16世紀末になると、肥後半国は緑川以北に加藤清正が、以南には小西行長が入国し現在までつながる町並の基盤整備が始まり、現在の熊本市中心市街地にあたる城下町の形成も始まりました。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後、徳川家康の天下になると、加藤清正が肥後54万石の領主となり、慶長6年(1601年)からは、茶臼山に城を築き、慶長12年(1607年)に「隈本城」から「熊本城」に改められました。また、白川、緑川など多くの河川改修を行い、緑川においては、城南町北部地域に洪水調整施設として桑鶴塘、横塘を築いています。その後、清正の子忠広が寛永9年(1632年)改易され、細川忠利が肥後領主となり、以後、明治までの二百有余年もの間、細川家により治められてきました。当時の城南町は、杉島手永、廻江手永に分割されており、その一部は、熊本市富合町と同じ行政域にありました。

近代に入ると、明治10年の西南の役で、現在の熊本市街地の大部分が戦火に遭いましたが、直ちに復興し、明治22年に熊本市が誕生しました。
市制施行当時、面積5.55㎞2、人口4万2千余人を数えるに過ぎませんでしたが、現在では、面積286.81㎞2、人口約68万人にまで発展し、名実ともに九州中央に位置する中核市として発展を続けています。

地域資源紹介

塚原古墳公園

塚原古墳群 (国の史跡 ・高速道路上にある古墳 )

塚原古墳群は全国でも珍しい高速道路の上にある古墳群です。 
昭和47年(1977)九州縦貫自動車道建設に伴う調査により発掘され、県民上げての保存運動の結果、遺跡の下をトンネルで通る。という全国で始めての方法で残されました。現在、77基の復元された古墳や、桜やアジサイ、コスモスなど季節の花が咲くきれいな古墳公園に整備されています。前方後円墳や方形周溝墓、円墳などの総数は約500基と推定されます。

熊本県民天文台

塚原古墳公園の真ん中あたりにある天文台です。星好きの方が県内外からいらっしゃいます。

城南町歴史民俗資料館

塚原古墳公園の中にある資料館です。考古・歴史・民俗の3つの展示室があり、豊富な収蔵品を備えています。塚原古墳群の出土品をはじめ縄文・弥生時代の出土品や民俗資料などの約400点を展示しています。

メリ穴公園

塚原古墳公園近くの洞窟から勢いよく水が流れていて、住民は昔からそこの水の神を祀りました。その「参り穴」から「メリ穴」と呼ばれるようになったそうです。現在は住民の憩いの場となっています。

御領貝塚(国の史跡・西日本最大級の貝塚)

雁回山東麓の舌状台地先端部にあります。昭和の初期から発掘調査が行われ、土器の他石器・鹿角斧・貝輪などが発掘されています。特に、これらと一緒に発掘された抜歯のある人骨は、当時の社会を知る上で貴重です。またこの貝塚の貝のほとんどが汽水産の大和シジミであることは注目されています。九州の縄文後期を代表する御領式土器はこの貝塚の土器を標識としています。
所在地、城南町東阿高八ツ尾  年代・・縄文後期(約3,000年前)

阿高・黒橋貝塚 (国の史跡)

昭和47年、堤防決壊の際に発見され、国指定史跡となっており、発掘調査によって土器の他人骨等も見つかっています。縄文時代中期から後期の貝塚で、浜戸川をはさんで南に阿高貝塚、北に黒橋貝塚を見ることが出来ます。黒橋貝塚は平成16年に公園として整備されました。

下田のイチョウ(国の天然記念物)

国指定天然記念物「下田のイチョウ」は、県下有数の大イチョウで樹齢は700年近いといわれます。高さ21メートル幹まわりが9メートルもあり、秋の黄葉はまさに絶景です。

宮地神社 (七所宮)

建てられたのは770年。(1200年以上前)名前の由来は、「1183年に主祭神として7柱の神を祀るため「七所宮」と称し」七人の神様を祀ってあるので「七所宮」と呼ばれます。楼門は江戸時代末期に建立されたものです。

小木阿蘇神社

1339年(延元4年)、肥後国守護菊池武光により勧請という説と、1340年(興国元年)に菊池武光の子武政が勧請したという説があります。菊池家代々の篤い崇拝を受けました。小木大明神 あるいは 小木宮 と称し、豊田庄の鎮守として氏子の崇敬を集め、広大な社領50町歩を有しました。1868年(明治元年)に小木阿蘇神社と改称。1882年(明治15年)、郷社に列しました。